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テンプレートと生成AIの便利さが奪うもの ーー 創造の原点を守るために

  • 5月2日
  • 読了時間: 6分

ずっと感じていた違和感

近年、学校現場でもテンプレート豊富なデザインツールや、画像生成AIを使う機会が増えてきました。

教育のICT化が進む中で、こうしたツールはとても魅力的です。すぐに見栄えの良い作品ができあがり、子どもたちも楽しそうに使ってくれる。指導者としても「成功体験」を得やすく、保護者へのアピールにもなります。

しかし、その便利さの裏で、私はずっと一つの危機感を抱いています。それは、「自分で生み出す経験」が損なわれてしまうのではないかという懸念です。


もちろん昨今の「〜風」画像も、自分があの世界に入りたいという憧れを手軽に叶える面白いツールなのかもしれませんが、それは特定の人の作り出した表現であり、加工のしかたによっては、その素晴らしい表現を冒涜するものにもなるでしょう。

自分が描いた絵が誰かの絵に似ていると言われて、不快に感じたことがあります。でもおそらくそれは間違いではなく、好きだった作家の絵が私の絵に影響を与えたからです。

つまり、知識や経験の少ない段階で、大量の他人の価値観を刷り込めば間違いなくその人の表現には影響がでるだろうということです。



「秋」とは誰にとっての秋か?

たとえば画像生成AIに「秋の風景」と入力すると、真っ赤な紅葉、澄んだ空、落ち葉の道……日本に住んでいると誰もが思い浮かべるような典型的なイメージが表示されます。

いえ、こういう表現すら私には不適切です。秋とは本来、地域や文化、個人の記憶によってまったく異なるもののはずです。


幼い子どもたちが、まだ自分の感性を育てている途中で、こうした"定型"のイメージを繰り返し見せられたらどうなるでしょう。彼らの「自分の秋」は、AIが提示する"秋らしい画像"に上書きされてしまうかもしれません。

もしかしたら、その子にとっては「秋」は紅葉でもなく、青空でもなく、自分にしかない何かだったかもしれないのに。

これは単なる風景の話ではありません。「表現とは何か」「自分らしさとは何か」を考える土壌が、知らず知らずのうちに削られてしまうことへの危惧です。



テンプレートが奪う「創造の原体験」

テンプレート型のデザインツールは、教育版も整備されており、授業支援にはとても便利です。テンプレートや素材を選び、文字を入れるだけで完成度の高いポスターやスライドがすぐにできる。これは今に始まったことではありません。昔から学習支援アプリにはこうした雛形がたくさんありました。実際に先生が仕事の効率化を求めて、特にこだわりのない掲示物作成に「かっこいい!」と思うデザインを取り入れるのは特に止めませんが。


でも、それがこどもに適用された時、果たしてそれは「子ども自身の表現」と言えるのでしょうか?

長らくデザインに携わって、商業イラストレータで生計を立てたこともある身として、顧客の欲しいものを生み出すために、常にかんがえていたのは、共感することと、想像することと調べて新しく得ることでした。私の経験と知識を、相手の経験と知識に重ねていく活動でもありました。


  • 構図を考える

  • フォントを選ぶ

  • 色のバランスを試行錯誤する

  • 描くのが難しいからこそ、アイデアで補う


こうしたプロセスこそが、「創造」の核心ではないでしょうか。

もちろん仕事で絵を描く場合、相手にも価値観があります。それがどこから影響を受けたものであるかによっては、「その構図や要求は、本来このポスターや挿絵が表すべきものに合わないのではないか」と思うことも多々ありました。でもそのすり合わせが、この仕事の楽しさでもありました。

私は絵を描く人間です。うまく描けなかった記憶や、時間をかけて工夫して仕上げた経験こそが、今の私の表現力の基盤になっています。

だからこそ、「下手であること」や「不器用な試行錯誤」を奪ってしまう教育には慎重でありたいのです。むしろその子供の(大人であっても)表現に、自分にないものを発見したいのです。



「便利」は教育の敵ではない。でも、使う順番が大切では?

もちろん、便利なツールを否定するつもりはありません。デザインツールやテンプレートも生成AIも、適切に使えば子どもたちの表現力や思考力を広げる手助けになります。問題は、それを「いつ」「どのように」使うかです。


私が提案したいのは、たとえば絵なら次のような段階的な教育の設計です:

  1. まずは白紙と手で描くことから始める:自分の感性で形や色を決める体験を重ねる

    (重要なのは自分で選ぶこと、自分で経験すること。時に筋肉の運動になるので疲れる作業になるし時間もかかるから日々重ねることで楽に思ったものを描けるようになる。)

  2. 他者の作品や例を参考にして表現の幅を広げる:観察と模倣の中で自分なりの工夫を考える(他の人の描くものや、自分が調べて見つけた自分の好きな絵の特徴を言語化したり、真似して描いてみる。他の人が好きなものを知って関心を持つために質問をしてみるなども。)

  3. テンプレートやツールを「選択肢」として提示する:目的に応じて使い分ける判断力を育てる(自分で複数選び出す。なぜそれにするのかを言語化する)

この順序を守ることで、子どもたちは自分の中に「表現の原点」をしっかり持ちながら、外部ツールの力も借りて表現の幅を広げていくことができるはずです。


絵を描くものとして今感じるのは、絵を描く作業は、目から入った情報を思い出し、頭で形に整え、その形を手の先から実体に再現する、筋肉と神経の育成です。

これは、他の誰も見ることができない、私だけの記憶の再現であり、写真に撮った景色とは本来違って見える可能性が高く、個人個人が興味を持ったことが、明確に現れる活動だと思っています。

もちろん手が使えないなどの場合は、言葉で表現できるようになることで、今なら生成AIがその人の頭にだけあるものを具現化してくれるでしょう。そこに個人の意思があり、自分にしか見えないものを形にするための道具としての生成AIは強い味方になるでしょう。

絵が上手いとか下手だとかそんな評価ではなく、その人にはそう見えている、それがお互いわかるから尊いのです。


たとえばこんな活動なら、私はテンプレートや生成AIで作品を作ることがしっくりきます。




最後に:表現の本質とは

表現とは「自分の心を外に出すこと」です。そこに正解はなく、失敗もありません。

だからこそ、「効率的に完成度の高い作品をつくること」よりも、「不器用でも、自分で考えて生み出すこと」を大切にしたい。特に幼少期は手や指の運動神経、観察力、想像力を育む意味でも、自分の力で生み出せる楽しさに伴って、他の生活にも役立つ手先のコントロールを手にいれることもできるでしょう。毎日の行動が、生きていくための体の基礎を作っているのだと思っています。

ツールは便利です。けれど、子どもの内面を育てるには、「便利」の手前にある不格好な努力や手探りの時間こそ、かけがえのない教育の瞬間なのだと、私は信じています。

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